メディアの中の読書「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を通して
メディアというのは伝達と表現という役割がある、と思っている。伝達手段としてのメディアは不特定多数に伝えるものであり、100のものがそのまま100伝わることはない。例えば傷ついた象と象使いがいることを伝達側が受容側に伝えようとする。
文章手段では、傷ついた象と象使いがいるということを単語で書く。さらに気の利いた比喩を目一杯表現しようと文章を構築する。ラジオなどの音声手段では上記の文章手段にナレーターなどが抑揚にたっぷりに傷ついた象と象使いの様子を語ることができる。さらに象の悲鳴の効果音なども付け足せば緊迫感も生まれる。テレビ、映画などの映像手段では上記の文章、音声手段の良いところを受け継ぎ、さらに傷ついた象と象使いの映像を使うことができる。血が出ている場所を拡大して映し出し、横に血のついたナイフをおいておけば、切迫感があるだろう。
このように、メディアとしての伝達手段に関しては、下図のような<映像>音声>文章>という順番になることは明らかである。円が重なったところが伝達側と受容側の共有しえるところである。
だが、伝達と表現は違う。表現に関しては、伝達側と受容側の差が大きければ劣っているということはない。様々な手段に利点があるなかで、読書の利点について述べたいと思う。足りない情報は自分でおぎなうしかない。そこが読書で得られる特異な体験だと思う。
例えば「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ではクラスが熱狂しているフットボールの試合を醒めた目で見ているホールデン・コールフィールドがいる。どういった場所で眺めているかは、小説の中ではっきり定かではないので、場所については想像力が必要である。
僕ならこう考える。少し高い丘に座り、楽しそうにやっているフットボール大会を眺めている。草むらに寝転んで、半分顔を出している太陽とにらめっこしている。読む人、十人十色にいろいろな想像があると思う。先のような想像をしたのは僕も同じような体験をしたことがあるからである。僕の場合、見ていたものはフットボールではなかった。だが、この読書の体験によって、僕は草むらで寝転びながら、フットボールを見た気になっている。さらにそれに似た同じような自分の情景をも連想してしまう。
例えば高校を途中でさぼり、ふらっと高校の坂を降りながら、くだらないと呟きつつも、一度だけ高校を振り返る。沖縄修学旅行で海での体験学習で、急にめんどくさくなって、友達と2人で「昼ご飯を食べてからお腹が痛い」とうそぶき、体験学習をさぼり、少し高いところから沖縄の海で楽しそうに、はしゃいでいるクラスメートを見ていた。いささか自分自身で勝手に消化している部分は多いが、こうやって僕はコールフィールドと思いを、少し共有することもできる。
キャッチャー・イン・ザ・ライ J.D.サリンジャー 村上 春樹 白水社 2003-04-11 |
登場人物の思いが、言葉として迫ってくる点も他のメディアにはない読書の優れた点である。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ではコールフィールドの言葉が圧倒的に読者に伝わってくる。偉人の一言、のような名言があるわけではない。全てを読んで、迫ってくるものがある。コールフィールドの言葉は何かにつけて悪口で占められている。言葉遣いは汚いし、例えに出る数字はいい加減な数だし、嘘が多い。“要するに”“本当の話”、など嫌味のような口癖も特徴である。ただそれだけを受け止めるのであれば、コールフィールドはとんでもなく悪い奴に感じる。だが一歩引いて考えると、それらの言葉はコールフィールドの、自分を否定してくる存在を否定することによってでしか、自分を肯定することができないことが鮮やかに表現されている。なおかつそれらは、いい加減さを越えて、そう嘘をいうことでしか自分を保てない、せつなさが圧倒的に迫ってくる。
それらは自分のことを一時否定している次の告白によって、証明される。
『僕はとてつもない嘘つきなんだ。まったく救いがたいくらい。たとえば僕がただ雑誌を買うためにどっかの店に向かって歩いていたとするね。そしてもし誰かに「やあ、どこに行くんだい?」と尋ねられたら、「ああ、今からオペラを見に行くんだよ」とかつい言っちゃたりするわけだ。とんでもない話だよね。』(30ページ)
ここに自分が嘘つきであることを告白している。おそらくコールフィールドの描く“健全”な人たちはオペラに行くと思っている。それは皮肉たっぷりに言葉から出ていて、馬鹿にしている。だが、“誰か”にオペラに行く、と言っているわけだから、“誰か”にはコールフィールドは“オペラに行く人”に変身している。それはコールフィールドは“オペラに行く人”に憧れていることを示している。
コールフィールドの屈折した気持ちは自分の昔の心情とよく似ている。今でこそ自分のことが少しわかって、自分が生きている世界がほんの少しわかったつもりでいる。だが昔は、自分を否定してくる存在を否定することによってでしか、自分を肯定することができなかった。僕個人としては、主人公ホールデン・コールフィールドの描く世界観は高校生時代の去っていってしまったものであったが、それには随分共感した。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の謎をとく 野間 正二 創元社 2003-10 |
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